生き方を科学する

物理の専門家が科学と哲学を融合します

人権を科学と対比しつつ考察する


1.はじめに

  現代社会において人権は批判することを許されない領域を占めているように感じられます。
  しかし、果たして人権はそこまで絶対的なものでしょうか?
  人権を科学と対比しながら考察します。


2.普遍性

  私達は重力によって否応なく地球に引き寄せられています。
  死んだ生物を生き返らせることはできません。
  これらの自然法則は国や地域、また過去、現在、未来において変わりありません。
  普遍な原理とは場所や時間によらず不変なのです。

 

  生存権を例に挙げましょう。
  生存権日本国憲法第25条に規定されています。
  「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
  (憲法第25条第1項)

 

  生存権は人権のうちの一つと考えられています。
  生存権はフランス、イタリアでは憲法に規定されています。
  しかし、米国、英国、ドイツでは生存権憲法に規定されていません。
  人権に対する考え方は国や地域で異なっているのです。

 

  生存権はあくまで一例です。
  しかし、国や地域によって異なるものは、科学的には普遍なものではありません。


3.人権の歴史

  人権は、イングランドの貴族がマグナカルタへの署名をジョン王に迫ったことに発します。
  マグナカルタは王の権限を制限するものです。

 

  その後、絶対王政下でフランス革命が起こり、フランス人権宣言が起草されました。
  フランス人権宣言には、国民主権、意見の自由、表現の自由、権利の平等、抵抗権、所有権等について規定されています。
  自由は他人を害しない範囲において認められる旨が記載されています。

 

  成立の過程において、人権は絶対的権力者から守るための盾の役割を果たしていたのです。
  人権は、権力者から守るための『盾』であって一般市民を攻撃するための『武器ではない』のです。


4.自由と平等の関係の矛盾

  経済的に自由な社会が実現されれば経済的に平等な社会は実現されません。
  また逆もしかりです。
  自由と平等は同時に成立しません。
  無制限な自由と無制限な平等は相反するのです。
  ただし、フランス人権宣言のように制限された自由と制限された平等であれば成立する可能性があります。

 

    自由:他の人を害しない限りにおいての自由
    平等:権利においての平等(機会の平等)

 

  DNAがそれぞれ違っているので能力は平等ではありません。
  機会が平等なので結果は平等ではありません。
  この場合、個人に与えられる機会が平等であり、職業選択等で不当な制限が加えられないのであれば、(制限された)自由と(制限された)平等は成り立ちます。

 

  ただし、無制限な自由と無制限な平等が同時に成立することはありません。


5.人権の弱点

  野球のボールがバットに当たるとボールは跳ね返ります。
  ボールがバットをすり抜けることはありません。
  サッカーボールが選手の足をすり抜けることはありません。
  ゴルフボールがゴルフクラブをすり抜けることもありません。
  これらは衝突するからです。
  決して、ボールと他の物体が重なって存在することはありません。
  自然法則は2つの物体が重なって存在することを許しません。

 

  日本国民は生存権を持っています日本国憲法第25条)。
  それでは、すべての日本国民が生活保護の受給を主張したらどうなるでしょうか。
  その場合には個人の所得税の歳入がなくなり、生活保護の歳出が増加します。
  国の財政は間違いなく破綻するでしょう。
  すべての国民がフルに権利を主張すると実質的に社会は成り立たないのです。

 

  生存権は、その発生時において「抵触している」ことを意味します。
  「抵触」とは権利が重複している状態をいいます。
  このように権利は重なって存在することがあります。
  なぜならば、権利は人間が勝手につくりあげた虚構(フィクション)だからです。
  権利や法律は、人間がつくったものであるから、不完全性を内包しているのです。

 

  権利が重複する、つまり、抵触していると何が問題になるのでしょうか。
  抵触している権利を有する2者以上の人達が、権利の帰属をめぐって争います。
  それが国土であれば、戦争が起こりえます。

 

  権利が抵触しうること、これは理論的にも問題であり、実際上も問題です。
  つまり、人権は本来的に抵触するという弱点をもっているのです。

 

  抵触が起こりえるため、人権は『不完全』なのです。


6.人権の平等性

  すべての日本国民は生存権をもっています(日本国憲法第25条)。
  すべての日本国民が生活保護の受給を主張すると国家財政が成り立ちません。
  そのために、権利を主張する人と、権利の主張を取りやめる人が存在します。
  権利を主張できる人と、権利を主張できない人が存在するのです。
  法的な平等性は破綻します。
  権利は平等にあるといいながら、主張する段階において平等でないのです。

 

  主張する段階において、人権は『不平等』なのです。


7.一部の人達が権利を主張して他の人達が我慢する社会

  主張する段階の人権の不平等性は2種類の人達を生みます。
  人権を主張し続ける人達と人権を主張することを控える人達です。
  権利を主張する人達とその主張を黙って見守る人達が誕生するのです。
  権利を主張する人達は人権という名の正義を掲げており、また自分の利益が認められるのであれば、満足するに違いないのです。
  しかし、黙って見守る人達はその行為に対して我慢せざるを得ないのです。


8.人権は相対的なもの

  現代の先進諸国の多くでは独裁者はいません。
  人権が絶対的な権力者に対する盾であるならばその効力は希釈化されるはずです。
  現代の日本では一部の人達が権利を主張し、他の人達が我慢を強いられているように感じられます。
  その我慢を強いられている人達も人権をもっているはずなのです。
  人権が抵触するものであるのならば、一部の人達が権利の主張を押し通すことで、他の人達の権利が相対的に低減するのです。

 

  人権を掲げれば絶対的な正義を振りかざすことができると考えている人達がいますが、人権が抵触しうる以上、主張する人達は他の人達の権利を蝕んでいるのです。
  人権が抵触しうる以上、人権は絶対的なものではなく、相対的なものなのです。

 

  一部の人達が人権を主張し続けることを許せば、他の人達が不利益を被るのです。